ライブでは聞けなかった話

     ---他民族音楽インタビューの壁---  
                        by 一般客席の疑問






:
-- 目次 --

 他民族音楽は本気になる程「けもの道」の音楽ジャンル

1. 演奏家の人たちが決して語ってくれなかったこと

2. 音楽をしない人間にしか、語ることを許されないこと

3. 他民族音楽ミュージシャン達は、いずれ必ず元気がなくなるのか?
  
  A  どうどうめぐりの構造
 
    イ)徒弟制度  
      
      ※付録 師匠の大切さ

    ロ)本国以外の民族音楽の世界

  B YMOが日本で流行るまで苦労した理由

  C 「ケイコ」の教室、センター、サークルでありがちな話、二つ

  D 映画「アマデスス」のモーツアルトはなぜ性格が悪かったか?
    あの映画以来、何となく文化は元気がなくなった気がする

4. 勝手な推測のおわりに


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はじめに
 
 他民族音楽は本気になる程「けもの道」の音楽ジャンル

 そもそも傍目から見ても、他民族音楽は「けもの道」だと思います。
 しばらくこの種のライブに通えば、一般客席からでも段々その辛さが分ってきます。
 プロになって本気になればなる程、このジャンルのミュージシャンの人たちは
「けもの道」を歩かされます。それだけネィティブに比べると環境的にも不利で、
評価されにくい、認めてもらいにくい現状。

 だから編集部は彼らに聞いてみたかった。本当の気持ちを。
 ・・・・・でも結果は・・・・・・・。

1. 演奏家の人たちが決して語ってくれなかったこと

 いろいろな他民族音楽のライブで、編集部は演奏家の人たちに質問をしました。
直接会場で聞くか、またはアンケート(配布用紙かメール)で。
 
 誤解されると困りますが、皆さん私に対してだけでなく観客皆さんの質問にいつでも、
とても気さくに一生懸命応えてくれて感謝しています。

 しかしここ数年来誰の反応も同じようだったのは、
音楽についてある種のことを質問すると、
壁が出来たように応えが返ってこなくなることでした。

 ニッ、と笑って誤魔化されたり、お茶を濁されたりetc.............、
もちろん音楽以外のことを聞いたことはないです。

 それで困って、今度は音楽関係の掲示板に疑問を投稿したりもしましたが、
やはり大して回答はなかったです。
 どの投稿回答者の方々も、素人の私にとても親切に
対応しようとして下さるのですが、やはり聞いてみたい核心の所はないまま。

 インダビューがヘタな私が悪いのですが、
それ以外にやはり演奏家サイドは口に出せないことがあるんだなぁ、
という印象が強かったです。

 他民族音楽の世界では、何か困っていることがあるのかもしれない?


 どの世界、業界でもなかなか当事者が口に出せないことがあると思います。
編集部は一般客席であり音楽も出来ないし、していないですので、
 
 それで逆に、
ここ数年来の「追っかけLife」の中で、演奏家達が決して語ってくれない、
そして私が個人的に疑問をもって知りたかったことについて、
書いてみようと思います。

 正しい答えは、演奏家の人たちにしか分からないことだし、
それを一般客席の私が確かめることはこの先も出来ません。
 だからこれはあくまで「推測レポート」です。

 音楽知識は一般客席レベルでありますが、
ただどの世界でも仕事でも、当事者が語ることが「タブー化」してしまっていることは
あって、それは内容は違っても種類が似ているように思えました。
 だから、そういうことから類推していきました。

2. 音楽をしない人間にしか、語ることを許されないこと

 手短にはっきり言って、ライブで演奏家の方々に質問して、
答えが返ってこない壁を感じたのは、「徒弟制度」と
「本国との関係」と「自国の状況」のことです。

 こういうことは「他民族音楽」の世界だけでなく、
どの芸事、またどの職業の社会にもあることだと思います。
 そしてそれに疑問をもつ外野の人たちがどの世界にもいると思います。

 私は音楽がぜんぜん出来ないし、カラオケ以外は一切自分でしません。
 だからこういうところでいろいろ推測してみることが出来るのだと思っています。

 正直言って、質問してもミュージシャンの人たちは歯がゆい程に口ごもり、
全然愚痴を語ってくれませんでした。
 
 もしかして内輪ではそういうことを話しているのかもしれませんが、
本音は一切客席に明かされないという感触。

 だから当事者のミュージシャンの方々の確認は一切とれないですが、
別に語ることがタブーでない、誰はばかることなくあて推量できる
おしゃべり編集部になってみました。(はは....)

3. 外国の他民族音楽家達は、必ず元気がなくなる構造では?
  
A  どうどうめぐりになりがちな構造

イ)徒弟制度

 先にまとめますと、他民族音楽はその音楽の教授スタイル、
「徒弟制度」の師匠が本国の人間しかいないために、
最高権威は必ず絶対本国にしかないと思われます。

 客観的にみると、
確かに本国の演奏家は圧倒的に上手いです。
 でも下手な人も沢山います。
 外国人でも上手い人がいるように。

 意外と本国の方々は、自国の民族音楽を志す外国人に対して、
心広く、温かく親切に歓待してくれ、公平に評価してくれたりする場合が多いようです。

 日本でも柔道が、外国人の方が強かった時はちゃんと外国人を評価していたように。

 しかし、同じ他民族音楽をする外国で、その音楽を評価するさいに、
本国の演奏家のみしか評価しない場合が多いようです。

 それはいろいろな理由があると思いますが、
一つは「徒弟制度」の中のある部分のせいのような気がします。

 (またはこの後の項の3.のB〜D参照。)

 公に認証されている師が本国にしかいない扱いなので、
師を立てて絶対視すると、同時に本国の演奏家以外がまがいもの扱いされる
ことになってしまう、という現象。
 しかし、師匠の恩は絶対であり、この徒弟制度は師を立てることが絶対に必要です。

 ここでどうどうめぐりが生じてしまっている気がします。


※付録 師匠の大切さ

 民族楽器は外国人にとっては幼少のころから身近にないので、
ある程度大人になってから、楽器を入手し、ある程度になるまで独学という
のが外国人演奏家に多いパターンだと言われます。

 「国の興隆は教育にかかっている」と一般に言われていますが、
芸術もそうだと思います。

 やはり良い師匠を得られることは、その人の音楽人生にとって最高の幸せの
一つのようです。

 現代は徒弟制度の必要ない仕事も多いです。
だから徒弟制度がどんなものか、ピンと来ない人も音楽しない人には多いはずです。

それで一応、そのことについて一般的な説明も付け加えます。


 日本の他民族音楽の方々はみなさん一様に謙虚で、
その音楽の本国の演奏家の方を立てるし
本当に心から憧れ、敬愛し、賛嘆の言葉を惜しまない。

 これは他民族音楽の方々のいつわらざる本音であり、
心からの思いだと感じています。本当に。

 そしてそれは他民族音楽だけでなく、他の芸事でもみられること、必要なことです。
楽譜が残っていなくて、口伝えで教わることの多い民族音楽は、
本国の師匠の分け隔てのない音楽への愛と熱意と、
温かい師弟関係なしには習熟がとても難しいです。

 本国の人間だけが「演奏を許される」または「その演奏を正しく評価してもらえる」
のであれば、その民族音楽は「普遍的な音楽」とみなされることはなく、
「珍しい地域の、珍しい音楽」というだけになり、人類学系の学問の研究対象になるだけ
のように思えます。

 その音楽の分野の力もある程度以上は大きくなれません。

 クラシックやジャズの世界で国籍の分け隔てがないから、
クラシックもジャズも世界の普遍的な音楽ジャンルとして高く評価されています。

 そしてそれらの演奏をする誰もが、
その楽曲スタイルを生んだ本国に深い敬愛を覚えます。

 多くの民族音楽は外国人にもその学校の門徒を開放して、
熱意のあるお弟子さんに勉強を許しています。

 この「徒弟制度」は日本の芸事のみならず、職人的・芸術的な部分のある
職業にみられます。

 良くも悪くもこの「徒弟制度」は、
長い年月行われ、職能の伝承のために必要不可欠なしくみとなっています。

 つまり弟子は師匠を立て、敬い、感謝し、態度にも表し、
そして師匠は、弟子に自らの知っていることと心を教えていく。

 学校等でお金をもらっている場合はも同様ですし、
お金をもらわない無償奉仕の場合は、さらに弟子が師匠の仕事のの雑用をしたりして
ご奉公するという形が多いようです。

 どちらかというと師匠にとっては奉仕的な仕事ですが、
師匠はその分野の発展と未来のために、
弟子にしっかり自分の芸を伝承しようとします。

 師匠にとっても自分のためになることではありますが、
この徒弟制度のすぐれた所は人間の争いやネガティブな感情を制度の中で
昇華しやすいことにもあると思います。

 よく無名のスターが大成功するドラマなんかで、
他人はすべて自分が成功するための「肥やし」「踏み台」にして、
必要なくなったら次々捨てていく、みたいな主人公が出てきます。

 でもこれはその芸事や職業を長く伝承し、発展させていくためには、
何のプラスにもならない安っぽい考えだとも言えます。

 小学校、中学と学校に卒業レベルがあるように、その習熟の段階によって教える人が
変わる必要があるし、長い目で見ると助け合うことは、
お互いさまなので、心から感謝して態度に表せば、あとは「卒業」として
師匠を変えることは許されていますし、必要なことです。

 また生活環境の変化によって、
人と人のつき合いが疎遠になったりすることも自然に起こるし
「徒弟制度」の教えるように、次の所に行くときも礼節をつくせば別に悪いことでは
ないと思います。
 「情けは人のためならず」ですし。
 
 「出藍の誉れ」という、師を越えていく弟子もいればそうでない弟子もいると思います。
 ただそれは弟子や師匠のそれぞれ本人の精進の度合いの違いによるものであり、
そのこと自体はこの制度にとって
重要なことでないように思えます。


 芸事に限らず大抵の職業は、
終わることのない「リレー駅伝」のように一人一人の自我を超えて、
その芸事や職業技術を受け継がなければなりません。

 その中で師匠も弟子も心も技術も切磋琢磨されていくと言われています。

 ライバルを敵視することが多いほかの職業の人と違って、
教師の真髄の一つは「出藍の誉れ」です。
 心から教師が人に敬われる理由の一つは、
自分を越えていく人間を生み出すことに情熱を傾けるからです。

 それは自我にとってすごく辛いことであり、
超自我にとっては最高の目的であり、深い所での満足と喜びになる。

 (「自我」にとっても、その分野の発展と伝承のためなので
  喜びであるはずですが)

 あ、もう一つ「それをしたいのに下手で見込みのない人」をナントカ
なだめすかし、叱咤激励して「ものにする」。
 これも教師にとって大変辛くて、同時に喜び溢れる仕事ですね。
 仕事としてハードで、でも超自我にとって最高の嬉しいこと。

 (ちなみに生徒本人の希望に関わらず勉強しなければならない、
 義務教育の教師はある意味でもっと大変かもしれませんね)

 いずれにしても教師はハードな仕事であります。

 「教師」がその分野に優れていて、習熟しているのは、
教えるのにそれが必要だからです。
 優れた教師とは、「教えるのが上手い」人のことです。

 どの分野でも一流の人が必ず、一流の教師でないと言われています。

 よく聞くことですが、そしてその人が更に一流の教師でもある場合は、
「この人は一流の人である上に、更に教師としても一流だった」と言われることです。

 まず、ものごとを最高水準の所までがんばっていくことは、並大抵のことでありません。
その人の私生活もかなり犠牲になっている場合が多いです。

 ましてや他人のために使うエネルギーが残っていない場合が多いようです。

 だから例えば音楽なら「名演奏家」であり続けるだけで、十二分に大変なことで、
そのことにすべてを捧げ尽くしてもまだ、足りない位です。
 このため名教師はぐーんと少なくなるそうです。
 
 そしてまた最高と言われる水準の人ほど、その席を譲るのはさびしいことだと思います。
 これは頂点の方の人しか分からないことらしいです。(私は全然分からない)
誰もが持っている単なる嫉妬以上に、辛いことのようです。
 このためまた名教師は少なくなるらしいです。

 だからこの二つの理由で、「教師役」を熱心にすることは困難なことらしいです。
 
 また多くの人たちは内心「良い教師」になりたくても、超人でない限り時間がないはず。
体力も、寿命も残らない。


 世界最高峰のバレリーナの一人ににマヤ・プリセツカヤがいます。
 彼女が自伝「闘う白鳥」(文芸春秋社)の中で、
彼女が群舞の一人として舞台に立っていた頃、名教師ワガノワに出会った話が
出てきます。

 ワガノワは歴史に残るような舞踏家ではありません。
でもバレエ教師としては金字塔という位すごかったらしいです。

 プリセツカヤは彼女の指導のことをこう語っています。
 「ワガノワは私の踊りに、金箔をほどこした」

 このワガノワのような名教師達が、
すべてのものごとの興隆をささえているのだと思います。

 もちろんいくらワガノワでも、やる気の足りない弟子を伸ばすことは出来ません。

 これはバレエに限らず何でも同じですが。

 私は子供の頃だけピアノを習っていました。
ヤマハの立派な先生でしたが、私は素質もなく、それを補う練習もしないまま。
 先生はいつもため息をついていました。

 今度生まれ変わったら、
「ワガノワ」をあまり苦しめないような、金箔ピカピカの良い生徒になりたいなぁ、
と思っています。(来世も同じか)

 
 ロ)本国以外の民族音楽の世界

 基本的に民族音楽は、ある民族が創り出し、
磨き上げた「音楽スタイル=ルール」です。

だから誰でもその「音楽スタイル=ルール」をきっちり守れば、
演奏をすることが出来ます。

 進んでいるクラシックやジャズの世界では、
国籍の特定された曲でも、演奏者の国籍で差別を受けることはないです。

 とはいえ、民族音楽の場合その民族楽器が幼少のころ側にないので、
練習量が本国に追いつかない人がほとんどです。

 圧倒的に総合的な教育環境は、本国が恵まれています。
 柔道でたまに強い外国がいるけど、やはり水準の高い日本人の数が
圧倒的に多いのと似ていますね。

 たとえクラシックやジャズ並に民族音楽の評価基準が世界的に国際化されたとしても
「本国にひけをとらない他民族音楽演奏家」の人口は、
圧倒的に本国人より少ないはずです。

 教育環境が違い過ぎるからです。
 それを補うために、外国人はそれこそ血のにじむ努力が必要だから。
 世界を目指す音楽家達の中で、
この他民族音楽というジャンルの人はけもの道を歩かされますね。

 でもまれにひとにぎり、
がんばって高い評価を得られるようになった人が世界中で出てきて、
日本でも出てき始めています。

(国内のみでよい活動をされておられる方も沢山いますし)

 野球やJリーグではありませんが、ぜひぜひ応援していきたいものです。
 そういう人の数が増えれば増えるほど、
 民族音楽もクラシックやジャズ並に国際化していくように思えます。

 畑違いますが、
小泉八雲=ラフカディオ・ハーンは、素晴らしい日本文学を書いています。
 不可能なことではないのですね。

 ただそもそも一つの「民族音楽」自体が、諸外国の文化と交じり合って
磨かれて確立した一つのスタイルであります。

 ラフカディオ・ハーンのように丸ごと日本人にならなくても、
素晴らしい「日本文学」を外国人のままで書くことだって出来るはずです。

 民族音楽の演奏って、他の音楽に比べて更に楽しめる特徴がある気がします。
 それは演奏する舞台のある土地の、大地のエネルギ−に拮抗してるというか、
釣り合ってる時に客席に響いてくる深い所からの微妙な振動。

 (電気楽器のすごいところは、
どこで演奏しようとほぼ同じ状態を作り出せることだという気がします。
だから他のことから隔離してくれるのでそれはそれで必要だし大変なものだと思います)

 民族楽器の人が海外に演奏に行くと
「皮や弦の張りが違って」大変だという話を聞いたことがありますが、
そういう問題でなく、音楽の芯の所で。

 だから外国、例えば本国での演奏と日本での演奏が違って聴こえてもそれは、
イコール「ホンモノにはかなわない」という訳でないと思います。
私が日本人の他民族音楽のとても好きな所は、
上手い人になると日本の土地とチューニングがちゃんとしてある感じがする所です。
多分外国で演奏する機会ある演奏家は皆さんそこによって
多分微妙に演奏が変わるのかもしれませんが。

 あと思いつく壁の部分は、

 「民族音楽」は本国の人間にとって「主食と水」であり、「誇り」で「財源」である。
ということです。

 すべての他民族音楽の音楽家達は本国に、心からの敬愛と感謝を表しています。
クラシックやジャズと同様に、それ以上に。

 その音楽ジャンルが「珍しい地方の珍しい音楽」で終わるなら、
クラシックやジャズ程の大きな力をもつことはありません。

 その音楽が普遍的なものとして世界中で愛され、広がるためには
評論体系の国際化が必要です。

 先に書いていますように、特に民族音楽の場合教育環境の違いから、
まず絶対に本国の圧倒的有利はくずれることはないはずです。

 むしろ国際化してその民族音楽する人の人口が増え、世界中に広がれば広がるほど、
本国の演奏家の権威や演奏の機会、教師の需要も増えると思います。

 日本人は柔道出来ると、外国で結構生活に困らないという話を聞いたことがあります。
柔道は外国でとても人気あるので。

 矛盾していますが、外国人の演奏家がもし本国の水準になっていたら、
それを公平に評価することが、
 逆にその民族音楽の本国にとってプラスすることが多いと思われます。

 アルゼンチン音楽(バンドネオン等)やインド音楽等、
民族音楽の中でも比較的知名度の高いジャンルの音楽は
外国人の教育や評価もきちんとしているような気がします。

(演奏家の世界のことは、編集部には分からないし沈黙以外の答えが返って
きたことはないですが)

 
 
 B YMOが日本で流行るまで苦労した理由

 私が学生の頃にYMOが日本で一世を風靡しました。
 外国でも大ブームに。
 (あ、YMOって坂本龍一、高橋ユキヒロ、細野晴臣 以上五十音順)

 彼らはアコースティック音楽と全然別ジャンルのデジタル音楽、テクノポップの
音楽する人たちです。
 あれはカッコもめちゃ良かったですが、音楽もすごかった。
(レコードも、初めて観たロサンゼルスからの日本語TV中継も)
自分も周りの人たちも思いっきりハマった音楽でした。

 これは本当かどうかそれぞれの世界の人でないと分かりませんが、
日本であまり突出すると、

 特に主観評価性の高い芸術分野では
国内では認めてもらいにくくて、外国で高く評価されて初めて日本でも
評価してもらえるという状況があるらしいです。

 よくスポーツで言われることですが、
私は音楽以上にスポーツの知識がないので分かりませんが、
似た部分あるのかもしれませんね。


 
C 「ケイコ」の教室、センター、サークルでありがちな話、二つ

 芸事を職業にしていなくても、大抵の職種の人は一生のうち何らかのお稽古事を
経験している人が多いです。

 編集部もそうです。
 そこで人ごとでなく、自分も感じ周りにも見受けられた状況があります。

 そしてそれは他民族音楽をする外国の状況とリンクする部分があるかもしれない
と憶測してみたりします。(本当の所は演奏家しか分からないです)

 二つのことです。
 どちらも「音楽」分野の話しで聞いたことでないのですが、
そこからちょっとあて推量を勝手にしてみました。

 まず一つ、
 それは「自分の教室の人が、ぐ〜んと上達したり、高く評価されたり」するのは、
遠くの外国の人や、遠くの国内の別の教室の人がそうであるのより、
ず〜っと、ヤキモチ焼けるということです。
 
 でも誰でもそれはある感情で、ただそのために人の悪口を言ったり、
足を引っ張ったりしない人がほとんどですよね。でもそうでない人も。
 無意識にも意識的にも。

 そういうやっかみの感情もプラスのエネルギーに変えて、
自分なりのペースで努力続け、自分なりにコツコツ進歩していけば、
いつのまにかそういうマイナスの感情さえもなくなって、自分が解放されて楽になっていく。

 そういうのは、いい教師のいる生き生き楽しい教室では、
自然と伝わってきて教われる。

 このためだけでも、私はケイコってする価値あると思った。
 私の場合は「気功」の教室でした。

 もし気功が本当に好きだったら、
自分以外の人が素晴らしい気功を出来るようになったら、
やはり素晴らしいと思うし、
一人としして同じ気功をする人はいなくて、
それぞれが素晴らしいから一番目も二番目もなく楽しいことだし、

 またすばらしい人が増えれば増えるほど、
その教室の力も広がるし、仲間もまた増えると。

 もしかして他民族音楽をする外国人が自分の国の人に
案外評価されなくて、本国の人の方が評価してくれたりする理由の
一つはコレもあるのかなぁ?とあて推量するのでした。

(本当はどうなのか?)

 これと似たことで、音楽以外の同種のことでもう一つありがちな話、というのを聞きました。

 それはこの「他民族もの」に命をかけ、そしてあまりの障害の多さに矢折れ刀つき
ついにあきらめて距離を置き、離れていった人たちの中のほんの一部の人らしいですが。
 
 そういう人たちの一部の人が、食えないブドウは酸っぱいではありませんが
「”他民族もの”は決して本国の人に絶対にかなわないもの」と決めつけ
現在精一杯現役でがんばっている日本人たちを、低く位置づけがちな傾向があるらしいです。
 本国の人以外はやっても無駄なもの、でないと困るかのように。
 もちろん全員ではなく、現役引退しても後輩を温かく応援する素晴らしい人たちがほとんどだそうです。

 確かにあまりにハンディが多くて、本国でも認められる程までがんばれる人はほんの一握りです。
 
 何の分野にせよ物事は「それに成功しているかどうか」に関わらず、人は道を変えることだってあります。
 燃え尽きたり、他に好きなこと大事なことができたり等の諸事情が出来て、
かつて「命をかけた」ことを後で捨てる場合もありますよね。
 本人にとっては必要な選択であり、本人に逆にプラスする場合もあれば後悔になる場合もあるのも
何のことでも同じですが。
 そういう時後輩を冷ややかな目で見ないで、温かい応援をする「現役引退者」も多いそうですので
誤解しないで下さい。
 ほんの一部の少ない人たちで、ただそういう悲しいことがあったというだけらしいです。

 クラブ活動を辞めた先輩のように、温かい応援を続けていけたら
力強い人間関係の土壌が出来たら、また後輩の道も開けやすくなるかなぁ、と思います。

(外野の一般客席の勝手な、希望です。ファンは好きな音楽聴きやすい状況になってほしいから)

 でもこれは音楽の世界での話と違うので、他民族音楽の場合はどうか分りません。
 音楽はもっと「世代継承発展」がスムーズかもしれない。
 一般客席は音楽をしないので、この辺の事情が分らなくてすみません。

 ただ確かにクラシック、ジャズの次に国際化の待たれる分野とはいえ、
他民族音楽の障壁は大きいです。
 でもこの先何世紀かけ長い目で「世界は音楽で一つ」というのを実現したいなぁ、と
思ったりします。
 メディアや交通機関の発達により、昔と違って世界の音楽は驚異的なスピードで混じりあいつつあるの
だから。本国には教育環境はかなわなくても、生まれたときから世界中の音楽を聴いて育つ子供達が
増えつつあるから。

 少ないけど、本国の演奏家と並ぶと本国が評価してくれる、
他民族音楽のミュージシャンの人たちもちらほら出てきています。
 別に音楽には「勝ち負け」は存在しないはずだし、ただファンはいい音楽を聴きたいだけだし
他民族音楽の演奏家の方達は「本国」とか「他民族」とか意識しないで、
ただ好きなことを一生懸命やってきただけだと思います。

 ただ別の音楽以外のことで、こういう教室でありがちな話をもう一つ耳に入れたので
つい書いてしまいました。

 両方とも音楽の世界にもある話しでしょうか?それともない話でしょうか?
 
D 映画「アマデスス」のモーツアルトはなぜ性格が悪かったか?
    
 あの映画以来、何となく文化は元気がなくなった気がする

@映画「アマデウス」の残したもの

Aその映画が嫌いだった、当時幼児英才教育のメッカの塾の話



@映画「アマデウス」の残したもの

 映画「アマデウス」は1985年公開・大流行した「天才モーツアルト」の
映画です。
 この映画以前はモーツアルトは、音楽史上に輝く何人かの楽聖の一人
ではありますが、特に女性に人気のある軽い感じのクラシック音楽というのが
一般の扱いの大半でした。

 それがこの映画以来モーツアルトのネームバリューも上がったように思います。

  さて古い映画なので「アマデウス」のあらすじを。

 生まれながらの天才モ−ツアルトは傲慢で下品で世渡り下手な「あんちゃん」で、
 同じく宮廷音楽家のサリエリは誰恥じるところのない作法を身につけた紳士、
 だが努力してもダメな凡庸な音楽家。
 
 生涯を音楽に捧げ敬虔な気持ちで音楽を愛する自分より、
なぜあんな「あんちゃん」(モ−ツアルト)に神は「神の愛」(天才)を与えるのかと、
次第に嫉妬をつのらせ、
陰で嫌がらせをし続けモ−ツアルトを衰弱死させた、というような映画。

 実在のモ−ツアルトの話かどうかは疑問ですが、世界を魅了した面白い映画でした。
しかし何か胡散臭かったし、この映画のあたりから何となく
「才能のある人とない人がいて変えられない」という
元気なくなる考えがはやり始めた気がします。 嫌な世の中というか。

 この映画にはっきりと現れている考えは、
世の中には「才能のある人」と「才能のない人」というのがいて、
それは決して変えることが出来ない、という考え方。

 昔に「才能に勝る努力なし」という言葉をどこかで聞いたことがありますが、
それを10年位かけて世の中の様々な分野で考えてみたのですが、
間違っている気がします。

 やはり「才能ある」と言われる程の水準に達している人たちは、
どこかでちゃんとトレーニングをしたように思えたからです。

 自分の身近でも音楽をはじめとする幾つかの分野で
たまたま「畏敬の念を覚える程上達していった人間たち」が何人も
いたから。
 そして彼らは最初のうち本当に「それほどすごくなる」とは
決して思えない状態だったから。

 もっと昔は、文化を始めすべての分野でアマもプロも入門者も達人も、
みんな「才能」ということをあまり今ほど気にしていかなかったように
思えるのです。

 だからケイコを始めようとする人々のやる気や良い雰囲気が
そういう得体の知れない言葉で損なわれたりもしなかった。


Aその映画が嫌いだった、当時幼児英才教育のメッカの塾の話

 私は昔、塾の事務局で働いたことがありました。
小学生中心のその塾の会社は、
全国展開していて自社に幼児教育の研究所を持っていました。

 その塾は当時幼児の英才教育のメッカでした。
その塾は、塾としては世間の批判もあるけど、良い面も沢山ある塾でした。

 幼稚園児が大学数学を楽々やったり、
知能障害あっても普通高校、大学に行けるように出来るように手伝える、力のある塾でした)

(私はそこの事務系部門で働いただけでした。
学生時勉強はダメでしたが、なぜか塾から給料をもらってしまう)

さてその頃世間は丁度映画「アマデウス」の大ブーム。

 でもその塾は方針により研修等で、
教師や事務員にまでも「アマデウス(天才)」
という考え方に疑問を強く投げかけました。

 「生まれながらの天才」と「いくら頑張ってもダメな凡人」がいる、という考え。

 実際のモーツアルトがあの映画のような人だったかどうかはともかく、
あまり礼儀正しい人でなかったというのは本当らしいと聞いています。

 理由は幾つか想像できますが、
ひとつは父が音楽を教授するのに精一杯で、
モーツアルト自身も音楽をするのが精一杯で、「普通のしつけ」をする
ゆとりがなかったのも大きかったような気がします。

 とても若い時期に何か他より飛びぬけた能力を発揮できるようになった人間は
その何かに専念していた分、精神的な成熟のバランスが取れなくて、
それをあとで埋め合わせするのに苦労するといいます。

 著名な数学者がエッセイで、
留学先のアメリカの大学院で飛び級してきた低年令の研究者達が
行き詰る理由の一つに、それを上げています。

 その塾では、三歳で音楽の才能を発揮するモーツアルトの幾つかの面を
強調していました。

 「胎教」「生まれついての音楽環境の良さ」「不世出の名教師モーツアルトの父」
「兄弟の誰よりも音楽の勉強・練習が苦にならない、音楽が好きなモーツアルト」。
 
 三歳で音楽が出来るのは、
その子が三歳で「必要量の練習をちゃんと済ませたからだ」であるからだというのが
塾の推測でした。

 その考えにその塾は誰も疑問を持たなかったのです。

 理由はその塾には幼児ながら大学教育水準の問題を楽々解く子供達が
ウヨウヨしていたこと。

 また、
その塾ではお母さん先生達が出産すると、
自分の三歳の子に包丁持たせて「料理作らせたり」するのです。
これがやさしく温かく教育すると、ちゃんと出来る。
 三歳の子の作ってくれたカレーライスというのはありがた過ぎて…拝んでからでないと、
食べれない気がしますね。

 普通、遊んでばかりいるはずの三才でもう死ぬほど練習させられたはずの
モーツアルト。

 多分サリエリよりはかなり練習してきたはず。
(映画の中でも、サリエリの練習開始年令は遅かったようです)

 つまりその塾がベストだと思うことは、
「適切な練習方法と努力」なのでした。

 生まれた環境とか出会う人間とかで、最初から良い状況の人はいると思いますので、
そういうのを「素質とか適性」と言い、
だけど訓練開始時期に「大差」がなければ、
いろいろな部分で「素質・適性」足りなくてもカバ−できるといいます。

 その「努力」というのが、「よほど好きでないと出来ない」といいます。
好きでないこと余りがんばろうとすると、しまいに吐きそうになりますよね。

 そして努力する「目的」又は「動機」が良くても、
努力しないと上達は望めませんが、


「努力」の動機が悪いものだと、上達がかんばしくないといいます。
大して立派な「目的や動機」でなくてもいいから、「悪しき思い」は自制しないと
結果に何らかの差がでるといいます。
 これは右脳教育の人達がよく言うことですが、そうでなくても世間を見渡すと
長い年月の間には「因果応報」みたいなことってある程度あるような気がしてくる。

 ハンディあればある程、「努力の量」は多いはずだし、
 「いつまでも新鮮な気持ちで、飽きずにそれをやりつづける」ことが出来るかとか、
「それをし続けるために、他のいろいろな不安とかしたいことを犠牲になければならなかったり」とか…..いろいろあると。

 もうその塾を辞めて随分経つのに、こんなに一気に超長い文章を書いてしまった。
やはりあそこの吹き込みの強さと実例の説得力はすごかったので...。

(そういえば、インド等の死生観「生まれ変わり」の考え方だと、
 生きているうちにした努力は、何か理由がない限りは次の来世に持ち越せるそうです)

 これで考えさせられたのは、
音楽以外の芸事や他のすべての分野で(たとえケイコ始めのカルチャー教室や
サークルでも)よくみられる現象、

「才能ある」とか「天才」系の言葉って、
人間関係を悪くする「意地の悪いゲーム」の一種にもなっているなぁ、ということ。

 誰かが頑張って高く評価されたり、誉められると、
「天才」ってチヤホヤして、次に今度はその人に対して
「才能枯れた」とか「落ち目」とかそういう反対のことを用意して
意地の悪いゲームを楽しんでいるようにさえ、見える場合があること。

 また塾が出てきて恐縮ですが、
「才能のある人」と「才能ない人」がいて決して変えられないのなら、
人を妬んだり、足を引っ張ったりするのを正当化出来てしまう。
あの映画のサリエリも自分を正当化していて、以後何となく
文化全体にああいうこと正当化するの止める、古き良き雰囲気が
なくなっていった感じ。

 前にアメリカが競争激しい国なのに、
芸術を始めいろいろな分野で、
後進の指導・教育に図抜けて親切で力を入れて
足を引っ張ったりすることを、止めるのはどうしてか?
という話を読んだことがあります。

 それはあるひとつの業界で、
誰か一人だけが良くても、業界は水準が上がらず
貧しくなってその分野自体が衰退していくから。

 ひとつの業界で「あの人もいい」「この人もいい」と
素晴らしい人が増えれば、その業界自体の水準があがり、
当然市場において注目度も高くなるし、需要も増えるからだと。

 確かに音楽でも、文学でも何でも
誰か一人だけが「いい」時よりも、
「あれもいい」「これもいい」時の方が、
本やライブやCDに興味持ったり、買ったりしますよね。

 こういうのってほとんど買わないか、
何冊も買うかのどちらかですよね。
 いいの沢山あって、あれこれ手を出すときの方が
文化が活気づいて面白いし。

(ただ、あの映画のモーツアルト程失礼なこと人にしたら
 嫌われても仕方ないと思いますが、でもサリエリの行動は異常ですよね.....。
 それにあんな若い猿のような性悪のあんちゃんは、
 誰かパパの代わりに大人がしつけないと...)

 実際に「才能枯れる」とかいうことは
簡単に説明してもらったことがあります。
 
 誰でも練習しないといずれ下手になる。

 また長い人生、新鮮な情熱を持続できなくなったり、
やりたいことが変わったり、精神的にメゲたり等々で。
人間変わってしまう何かがあったとか。
 
 何かをず-っとやり続けるというのは、、
練習量だけでなく精神的に続けられるように自分をもっていくだけでも
ものすごく精神力がいることです。
 
 最高のエネルギ−をず-っと持ちつづけるのはしんどいことだし、
はたして本人の幸せとイコ−ルでないこともある気がします。
 
 何かの道で成功することだけが、人間の幸せではないから。
 かけがえのないことは、他にも沢山あるから。
 
 こういうふうに「才能」って言葉ばかり浮いて強調される感じになると、
ますます自分に対しても、人に対しても嫌な感じになるし、元気なくなっていく気がします。
 
 ケイコ一つ、街の教室で始める時にでも。
 何か面白くないですよね。ちょっとやってすぐ止めたくなるし、
上手い人が許せなくなったり等々。
 初心者越える頃には、教室の雰囲気も人間関係も良くなくなり始めますよね。

 映画はともかく、自分の知人達の音楽だけでなくいろいろな周りの別の分野のことで、
何だか嫌な話が幾つかあったので(どこでも良くある話ですが)…。

 他人に使っても、自分に使っても結局息苦しい考え、言葉だと思うので、
そういうのにこだわらないと、
あまたのいろいろな分野のサ−クルを始めいろいろな世界ものびのびして互いに楽になり、
余計なことにエネルギ−とられずに道をのびのび行ける気がします。
 
 長い人生、ケイコやいろいろなことで学んだことは、
別に下手でも上手くても、邪気のない良い心持ちがあれば、
誰でも良いエネルギ−を感じる活動が出来るということ。


 塾のお陰でこの映画のただならぬ大ブームについては、
本当にいろいろ考えさせられて面白かったです。

 
 ちなみに客席にいると時にライブでたまに遭遇出来る
「天とつながっているような名演奏」があります。
 
 それは、その人が自分の限界まで努力した時に、
天がその先から手を差し伸べてくれる感じ、それが神の愛(天才)だと思いました。

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(ちなみに、私はモーツアルトの音楽には超完成度、楽曲としての完璧さをとても感じ
  ますし、好きな曲も数曲ありますが、「大ファン」という程ではなかったです。
  
  話がちょっと関係ない所に脱線しますが、
  昔、とても辛いことがあったときにラジオから
  「モーツアルト」みたいな曲が流れてきたことがあります。
  
  その曲には生きる喜びが一杯に詰まっていた。
  それで私はとても慰められたのです。
  「精神的に虫の息」だったところを、「復活」させてくれたのです。
  
  これは絶対モーツアルトだと思い込んで調べたのですが、
  それはハイドンの曲でした。ハイドンっぽくないイメージの曲。
  同時代だから似てたのですね。
 
  エステルハージーバリトントリオのコンサートFM中継、
  「ハイドンのホーボーケン11-48 アレグロモルト」
  
  ★いい曲なのにレコードもCDも出ていないのです。
  誰か知ってる人いませんでしょうか?


4. 勝手な推測のおわりに
 
 追っかけしながら、いろいろ質問した結果、
答えが得られないことだけを中心に、
逆にレポートしてみました。

 これが間違っているのか、それとも多少は合っているのかは分かりません。
 
 音楽する人当事者にしか分からず、そして彼らはこのタブー視されている話題を
自ら決して部外者に語ることはないので、確かめようがありません。

 お気楽な一般客席の、ライブを肴にしたナゾナゾごっこだったような気がします。
長くてゴメンナサイ。

 


 


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